代表の詳細

2013年雑誌にて特集ページを組んでもらったのでそのまま貼り付けます

200X年みなとみらい横浜。小奇麗に整列したローライダーの列に切り込むように停車した一組の集団。「AUTOBOTS Japan」を名乗る彼らがクルーズスポットに現れると確実に周囲の空気が変わったのを今でも鮮明に憶えている。チームの先頭を走るのは当時では珍しいゲルコートプライマーを纏うワイドボディのMR2。当時全盛期だった「スポーツコンパクトカー」ブームに逆行するようなベースチョイス。そしてラディカルなカスタムはクルーズスポットにいる誰もが振り返る独特のオーラを放っていたように思う。
 MR2から降り立ったのはAUTOBOTS Japanのオノケンこと、小野勝也氏。もちろん、クルマに対して彼自身のルックス、立ち振る舞い共に文句ないバランス加減。そんな彼に衝撃を受けてしまった、筆者の率直な感想は「完全に追いつけない領域」、である。

 そんなオノケンとあの日から数年振りに再開を果たすことになった。といっても、過去十数年のうち会話を交したのは恐らく挨拶程度。そのため、今回の取材に当たっては彼の生い立ちや考え方といった基本的なことから今後の動向など、あらゆる質問を投げ掛けてみようと思った。しかし、世間話を済ませてからようやく本題に入る頃、「重いよ…」と意外な言葉から口火を切ったオノケン。その後に続く言葉の数々はハッキリ言って自分が彼に対して抱いていたイメージと大きなギャップを感じてしまったのも事実だった。だが、取材終了後に悟ったのはやはり“オノケンのルーツ、ここにアリ”。「この人はとてつもなくスゴイ人だ…」と改めて実感してしまう自分がいたのである____。
 
 きっと誰もが抱くオノケンのイメージはあのマジョーラカラーのCRX。そしてワイドキットが巻かれたゴールドのMR2。そして、アメリカのクラブ“AUTOBOTS”のジャパンチャプターとしても活動していた彼はメディアにもたびたび登場し、シーンを賑わせる常連だった。さらに、この後の文章からもたびたび登場する“自然体のアメリカ”=(心がアメリカじゃないとニセモノだ)という彼のスタンスは、幼少期がそのスタート地点である。
 8才から17才まで父親の影響から始めたモトクロス。当時のオノケンは学校にも通わず、バイクを速く走らせるためにトレーニングと練習に励んでいたという。そこで身に付けた“勝負心”は現在の彼をカタチ作ると同時に、中途半端を嫌う完全主義のベースとなった。しかし、17才の時点で国際B級ライセンスを取得した彼だが、“ケガ”を機に引退という転機を迎えることになる。
 「あのときは完全にスランプだった」と当時を振り返るオノケン。さらに、医者からは「車いすを覚悟して欲しい」と言い渡された彼の体は10代にしてボロボロ。本人は「今でも骨がオカシイんだ(笑)」と苦笑いするが、さらに悲惨だったのは「レースが出来ないなら出て行け」という父親からの一言だったという。
 しかたなくトランポとして使っていたキャラバンに寝泊まりすることになり、毎日の食事は閉店間際に安売りされるスーパーのお弁当。そんな生活を3年間経験したという彼は「生きていても仕方がない」と人生に嫌気が差したことも正直、あったという。だが、とある医者に言われた「体をさらに鍛え、筋肉でカバーすれば車いすを免れる」という一言が持ち前の闘争心に着火。そして、再び猛烈なトレーニングを開始すると同時に、少しずつクルマのカスタムにも興味を持ち始めたのが19才の頃だったいう。
 手始めに行なったのは愛車キャラバンへのオーディオカスタム。そして、ちょうどこの頃は“AUTOBOTS”創世記メンバーのツルサキ氏との出会いがあった次期で「お金で買えないなら作るしかない!」と、お互いで知恵を出し合いながらクルマのカスタムを楽しんだという。そんななか、独学で習得したというセキュリティの取り付けはその頃流行っていたVIPERをメインに、知人のクルマに施工することで収入も確保。そこから手に入れたというのが、誰もが知るあのド派手なホンダCRX。これがオノケンのルーツであり、彼のカスタムビルダーとして人生を送るための序章である。

 自然体で身に付けた持ち前の感性、センスを武器にカスタムを進めてCRXだが、当時パソコンを持っていなかった本人は、仕事を終えると漫画喫茶に入り浸りweb上に展開されている本場のシーンをひたすらプリントアウトするという日々。その中でみつけた“トランスフォーム”=変形というカスタムのキーワードは彼の脳裏へ強烈に突き刺さり、その代表格として名の知れたUSクルー“AUTOBOTS”からジャパンチャプターへの任命を言い渡されている。
 そこからの活躍振りは承知の通りだが、まだまだ技術の乏しかった彼はオートバックスで鈑金用のパテを買い、警察に注意を受けながらも山の中でCRXをオールペイント。しかし、「ナゼかペイントメーカーであるMAZORAよりスポンサードを受けた」というエピソードからは、人の助けや協力を得て一台のクルマをカスタムしていくというアメリカ感覚のスタンスを学んだという。
 それからはたびたび雑誌にフィーチャーされるなど一躍トキの人となったオノケンだが、その裏で自身は日米間におけるスポーツコンパクトの定義と日々格闘。その結果、行き着いたのは「アメリカのファッションのモノマネは嫌だ。カッコ良いものだけを身に付けていたい」というライフスタイル的なものから、「ローライダーやミニトラックなど、オールジャンルの業界からカッコ良いと言われる一台を作りあげたい」という部分にまで発展し、あえて“定義”を考えない自分だけのビジョンを貫く姿勢を確率。そして、行き着いた2台目のカスタムベース、MR2への箱変え以降はアメリカを一切考えず、逆に本場の人間から注目されるようなクルマ作りを心がけていくことを自らのコンセプトとした。
 また、驚くことに彼自身の渡米経験は全く無いというが、心を“アメリカらしく”置くことで自然体の本場らしさを常に意識。これを言葉で現すのは実際かなり困難だが、あえてそれを解りやすく言えば“アメリカ目線からみた悪い方”。カスタムカーに乗る以上、多少の危険は付きモノ。そして、「ちょっと気合いをいれていないとカッコ良くないし、女の子も寄ってこない」というのがオノケンのカスタムカーに対する定義である。また、同時に日本のローライダーやVIPはどうしてこんなに大人しくマジメなんだ、と、今のシーンに対する疑問を投げ掛けるのも彼のストリートに対する考え方を垣間見る部分だった。


 スポーツコンパクトの定義を外し、独自の理論で作りあげるMR2はオノケン曰く完全なノンジャンル。このベースを選んだ理由はリアエンジンのモノコックボディというストレートなものだったが、この次期からは本格的なショーカーを作るという意識が芽生えたのも事実。そして、何をヤルにも常に真剣な姿勢を貫く彼は鈑金ショップに就職する傍らでFRPの加工技術を学ぶために神奈川県のBLOWにアドバイスを仰ぎ、さらにGTカーを手がける本格的なチューニングショップへ弟子入り。そこから見様見まねで学んだ技術は当時のMR2にも遺憾なく発揮され、そこにサスペンションやエンジンのクローム化といったオノケン流、独自のコンセプトも加わることで、日米の業界からも多くの注目を浴びている。
 また、「海外メディアから取材を受ける」という念願の夢が叶ったのもこの頃で、○○年にはModified Magazineのカバーの座を獲得。同時に多くのスポンサードも受けていったMR2はGUAMで開催されたX5にも招待されるなど、その実績は数知れず。それは、彼がひた向きにこだわってきた独自の定義、そして“オノケン”という断固たる人物像が確率された瞬間だった。

 「俺は自分から日本から出ない。向こうの奴らが自分のアクションに気付くのを待つだけ」というブレない意識。それに対する周りの評価は自らの自身にも繋がり、彼自身もさらなる夢を追い求める。それはショップをオープンする、という漠然としたものだったが、やるからにはトコトンやる!と、自らのビジネスプランをイメージ。そして、何より「貧乏人は独立出来ない」というレッテルを貼られるのを嫌った彼は、全てを失ってでもやり遂げるという勢いのもと、一見さんお断りのハイエンド・マフラーショップというのれんを掲げ、現在に至っている。
 「カスタムカーに対しても、ビジネスに対しても固定概念が無い方が良い」という彼は、常にブレず、独自の概念を貫く姿勢を忘れない。今まで習得した技術のほとんどは独学。それはホームページの製作や経営にさえも生かされており、「自らのハードディスクに限界は無い」と言い放つ__。
 
 英語を話せる訳でもなく、渡米経験も皆無。だが、あの日のストリートから感じた彼の“らしさ”は、いわゆる普通のカスタムカー乗りには到底追いつけない領域に未だあるように感じる。ハッキリ言ってここでは書くことが出来ない壮絶な人生も送ってきた、オノケンこと小野勝也氏。彼の根本は未だリアル・ストリートに混在し、あれから数年が経った現在も、全身から放つ自然体なアメリカは決して色褪せていない。

紙面は多いので一部抜粋で張らせていただきます。
https://photos.app.goo.gl/nBBtVzZmapXPGs8A9